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2019年3月26日火曜日

漆林でつかまえて

淡いブルーの季節の中で
何かを見てる
           ------------- 飛鳥涼


 昨今はイベントや展示会がインフレーションを起こしています。作家は食い扶持を稼ぐため、ギャラリーも同様に必死の売り口上ですが、買う側の心情を慮れば、もうこれ以上は何も要らない、展示会などやってくれるなといったところかもしれません。そんな前振りをかましておきながら、弊店でも漆工家・相田雄壱郎の展示会『うるしドリフト』を開催することになっております。3.28(木)-4.3(木)12時-19時。屋上屋を架すことになるのか、脱構築の道筋を見出すことができるのか。まずは初日28日の19時からトークイベントを一本。ゲストは青梅で朱文筵工房を主宰する漆工家の戸枝恭子さんと手塚俊明さん。モダニズムの漆芸家・磯矢阿伎良の意志を継ぎ、古作に倣いつつ瀟洒な漆器を手がけている方たちです。トークの内容についてはもはや相田さんに丸投げですが、制作における初期衝動について、所蔵の古い漆器を前に何かしらお話しいただけるようなことを小耳に挟みました。だとすれば、物作りに勤しむ人はもちろんのこと、時代漆器を扱う古物商も参加しないわけにはいきません。濃密な漆の話を小一時間ほど。参加費は無料なので、タダより怖いものはないことが身に沁みている方にとっては、ちょっとハードルが高いかもしれません。ご予約はgyakko3@gmail.comまで、お名前と電話番号を明記してお申し込みください。
 さて、展示会のDMに記された相田さんの声明には「漆器という概念にとらわれない工芸品」とあります。これは、もともと職人として輪島で修業した相田さんにとっては、決死の表明のようでもあり、過渡期を生き抜くために背水の陣を敷きまくった宣言とも取れます。彼は工芸の歴史にどんな楔を打ち込もうというのでしょうか。心してお出掛けください。



我が家で使っている相田工房の椀と匙。これは職人仕事。
今回はそこから離れた、謂わば作家としての仕事も見る 
  ことのできる展示になります。              





2019年3月19日火曜日

苦しまぎれの漆まみれ

 3.28(木)-4.3(木)は会津若松の狂える漆工家 相田雄壱郎の展示会『うるしドリフト』です。オープニングを彩るべく、トークイベントを一本入れました。ゲストは青梅の朱文筵工房で漆器制作を続けている戸枝恭子さんと手塚俊明さん。お二人は古作に感化されて制作することが多いそうですが、そういう姿勢は現代の工芸界においてどのような批評的営為となり得るのか。制作における初期衝動といったテーマを交えながら、相田さんとお話ししていただきます。物を作っている方、物を作る現場に興味のある方、古い物を扱っている方はぜひ奮ってご参加ください!
3.28(木)19時〜書肆逆光にて  参加費 おひとり1,000円
→戸枝さん、手塚さんの意向で参加費は無しとなりました(3.21訂正)。
タダより怖いものはない・・と思わずにぜひお気軽にご参加ください。
ご予約はお名前・お電話番号を明記の上、gyakko3@gmail.comまでお願い致します。

 散文全盛の世にあって、詩歌の類いは周縁で好事家たちによって命脈を保っている感じですが、工芸の世界でも陶磁器がメジャーで漆器はマイナーの立ち位置にあると言ってもよさそうです。ポエジーとしての漆器は死に瀕しているのか、もしくは詩に貧しているのか。今回の相田さんの展示は、そんな漆工家の境涯から軽やかにズレていくことを目指しているように見えます。まるで手遊びのように作られたものが、実はすこぶる真剣味を帯びていて、はじめはそのズレにある種の戸惑いを感じるかもしれません。それこそが相田さんの批評性だとすれば、まずはそこに身を浸すべく、ぜひお運びをいただきたく存じます。皆さまのお越しをお待ちしております。

お配りしているDMの地図に誤りがありました。東西に走る通りですが、
誤:昭和通り→正:八重洲通りです。
迷われた際にはご遠慮なくお電話ください。03-6280-3800
ご案内もしくはお迎えにあがります。

刳り鉢と鎬の皿
巨大なヨックモックのショコラオレのよう

平置きした時にちょっと浮いて見えるのがカッコいい
ですね。                    

裏返すとこんな感じ

刃痕の荒々しさと良質な漆のもたらす質感の対比が
おもしろい鉢                 


相田工房の朱の発色は相当いいです



インスタグラムもぜひご覧ください。店内の商品を紹介しております。→👃

2019年3月7日木曜日

うるしドリフト

 弥生の終わりにイベントを一本入れました。相田雄壱郎『うるしドリフト』3.28(木)-4.3(木)です。野澤亜希子さんによる美しいDMが出来上がりました。店に置いてあるので、ぜひ手に取ってください。DMに載せた相田さんの声明には、用と美を満たすだけが工芸の役割であろうか、そこからズレていく純粋な創作としての工芸もあるのではないか、といったことが書かれています。作ることそのものの快楽を経て得られる「形」を主題として展開してみたいと彼は考えているようです。快楽の漸進的横滑りの実践といったところでしょうか。
 相田さんは輪島に徒弟として入り修業したれっきとした職人です。彼の親方は名の知れた腕利きで、お父さんも民藝筋からはよく知られた塗師であります。さて、ウチで展示をするという話になって「どんな展示にするのか」と聞くと、彼は「家を並べる」と答えました。なぜ漆職人が家を作って並べるのか。三井ホームの住宅展示場じゃあるまいし、隈研吾か中村好文にでもなったつもりでしょうか。しかし彼はたしかに家を作り、すでに実験的に展示会でそれを並べてもいます。それは木っ端切れに窓や出入り口用の穴が刳ってあり、屋根の勾配も付いていて、たしかに家と認知できる最小限の手が加わっています。素朴な郷土玩具のようでもあり、北欧の知育玩具のようにも見えます。不思議な洗練が見て取れて、窓際にいくつか並べておきたい衝動に駆られるかもしれません。
 相田さんは匙好きで、古作の気に入ったものを手元に置いて、創作の参考にもしているそうです。DMに載せた奇妙な透し彫りのスプーンはその一例でしょう。ほとんど一点もので、展示会で並べるとすぐに売れていくとのこと。会期の後半に行っても売れてしまって無いので、実は自分は見たことがないのです。生活工芸と名づけられたシーンがあり、そこで見られる使いやすそうでシンプルな作行きのものとは対極に思えます。修業で培った日用に即した器物からは大きく離れた得体の知れない抽象衝動が、相田さんの中に渦巻いているのかもしれません。まさに横滑りと漂流、このドリフト感をぜひ見にいらしてください。どんな光景が展開するのか、自分も楽しみです。


工芸界を静かに揺るがす作品 
ペドロ・コスタが撮るリスボン郊外の家並みにも
見えてきます。               



ミニマルな営み


椀も並びます。


椀と家。あまり見たことのない光景。

DM。絶賛配布中です。
 ※地図に一点誤記がありました。           
誤:昭和通り→正:八重洲通りです。お間違えのなきよう、
迷われた際にはDMの電話番号にご一報くださいませ。 
ご案内もしくはお迎えにあがります。         


2019年3月5日火曜日

きらきらいし

 古溝真一郎という詩人が七月堂から出した『きらきらいし』と名付けられた第一詩集がとてもいいので、まずは日本語を母語とする人たちに読んでほしいと思っています。地球上には詩を必要としていない人の方が多いかもしれませんが、こんな詩集が世に産み出されたことがなかなか尊いような気がするので、ゆくゆくは翻訳によってでも、少しずつ世界に広まっていくといい、ぐらいには考えています。そういう思いを伝えるための言葉には、それこそ詩的な力というか気韻というかオーラが備わっていた方がいいはずですが、当ブログではその責を全うできないでしょう。だからと言ってただの伝達事項では、読み終わった時点でその言葉の役割は終わってしまうので、何かしらバツンと人々の心に楔を打って買う気にさせないといけない、という思いだけはあるのです。
 詩の言葉は、読み進めていく同時進行で感じるものもあれば、読んだ後に余韻として響いてくるものもあります。余韻が響くとは、意味ありげなだけの言い廻しですが、意味内容を汲み取りながら読み終えた後に、意味の網から漏れて溜まったものに気をそそられてしまう、といったような感じです。もちろんそれは詩だけでなくて、小説もそうだし、絵画や音楽や映画だって、作品と向き合っている時と離れた後では感じることは違ったりします。ただ、考えというのは言葉によって為されるし、詩は端的に言葉の芸術なので、言葉によって言葉を考えることの不思議さに向き合える表現形式は詩と小説です。さらに言えば、登場人物の名前とかストーリーの展開に気を取られない分、詩の方が言葉についていっそう混じり気なく考えることができるように思えます。
 古溝さんは当店が場所を貸している詩の会を主宰していて、それがもう4年ほど続いています。ウチの開業当初に「景気づけに何か詩のイベントでもやってくれや」と、そんな言い方ではなかったと思いますが、古溝さんにお願いしたのが始まりです。書いてきた詩を黙って読み合って、その後何かしら意見を言うという割に素朴な会です。自作の批評に激昂した詩人が、手近の欅の敷板で隣りの詩人をぶん殴るといった事件が起こらないのは、ひとえに古溝さんの人柄でしょう。このたび刊行された古溝さんの詩集には、主にその会に合わせて書いた詩が載っています。静かに蓄えられてきた言葉が一冊の本として世に出回るのは、熟成した豆をゆっくり抽出した水出しコーヒーが、ようやく一杯分になったような感慨です。実際、古溝さんの詩には、ぽたぽたと少しずつ言葉が零れ落ちてくるのを待って、紙面を埋めていくような趣きがあると、自分は思っています。

たとえば「ある祝日」からの一節

人が床を踏んで暮らす
よりすこし高いところに猫は寝ている
カーテンの向こうの
張り出し窓
生きていればひとまず音でわかる
震えているのでわかる

雨が降っている
子は黙ったまま


 詩人の刻々と過ぎゆく毎日の生活の水平面の現在を、自動詞が垂直にすっと貫いていくリズムが、紙面に独特の倫理を構成しているような気がします。不用意な形容詞や聞きかじりの固有名詞によって汚されていない感じです。いかにも矢継ぎばやに作を物することができない詩風です。だからこそ、やっと結晶化したこの本がことのほか貴重に思えてきます。日常を詠んで軽妙になりすぎず、晦渋にもならず、教訓っぽくせずに書くのは思っているより難しい仕事でしょう。
 そういえば古溝さん自身は尾形亀之助の詩が好きだそうです。尾形の詩は雑というか投げやりなように書かれていますが、たしかにそれは詩としか言いようのないものです。以前に存命の詩人で誰がイチオシか、みたいなことを聞いて教えてもらったのが馬野ミキでした。この人の詩も一見ぞんざいな書きぶりです。古溝さんは現代詩の言葉の布置結構に取り込まれないように用心しているみたいで、その態度はそのまま詩についての批評になっていると思います。古溝さんの詩は、日常に使われているままの言葉や言い廻しで普遍の端っこを摑んでいて、それは尾形亀之助の他に、八木重吉や小熊秀雄、さらには忌野清志郎の系列に連なるのではないかとさえ思っています。みんな早死にですが、べつの縁起が悪いということもないでしょう。

「黙禱」

パジャマパーティー?
そうだねえしようか
みんなぐたりと眠くなるまで
いまいるものもいないものもみんなで


古溝真一郎『きらきらいし』
七月堂 2019年1月22日発行
発行者 知念明子 印刷 タイヨー美術印刷 製本 井関製本
装画 古溝言理 帯文 滝口悠生 A5版本文88頁 1,500円