詩の言葉は、読み進めていく同時進行で感じるものもあれば、読んだ後に余韻として響いてくるものもあります。余韻が響くとは、意味ありげなだけの言い廻しですが、意味内容を汲み取りながら読み終えた後に、意味の網から漏れて溜まったものに気をそそられてしまう、といったような感じです。もちろんそれは詩だけでなくて、小説もそうだし、絵画や音楽や映画だって、作品と向き合っている時と離れた後では感じることは違ったりします。ただ、考えというのは言葉によって為されるし、詩は端的に言葉の芸術なので、言葉によって言葉を考えることの不思議さに向き合える表現形式は詩と小説です。さらに言えば、登場人物の名前とかストーリーの展開に気を取られない分、詩の方が言葉についていっそう混じり気なく考えることができるように思えます。
古溝さんは当店が場所を貸している詩の会を主宰していて、それがもう4年ほど続いています。ウチの開業当初に「景気づけに何か詩のイベントでもやってくれや」と、そんな言い方ではなかったと思いますが、古溝さんにお願いしたのが始まりです。書いてきた詩を黙って読み合って、その後何かしら意見を言うという割に素朴な会です。自作の批評に激昂した詩人が、手近の欅の敷板で隣りの詩人をぶん殴るといった事件が起こらないのは、ひとえに古溝さんの人柄でしょう。このたび刊行された古溝さんの詩集には、主にその会に合わせて書いた詩が載っています。静かに蓄えられてきた言葉が一冊の本として世に出回るのは、熟成した豆をゆっくり抽出した水出しコーヒーが、ようやく一杯分になったような感慨です。実際、古溝さんの詩には、ぽたぽたと少しずつ言葉が零れ落ちてくるのを待って、紙面を埋めていくような趣きがあると、自分は思っています。
たとえば「ある祝日」からの一節
人が床を踏んで暮らす
よりすこし高いところに猫は寝ている
カーテンの向こうの
張り出し窓
生きていればひとまず音でわかる
震えているのでわかる
雨が降っている
子は黙ったまま
詩人の刻々と過ぎゆく毎日の生活の水平面の現在を、自動詞が垂直にすっと貫いていくリズムが、紙面に独特の倫理を構成しているような気がします。不用意な形容詞や聞きかじりの固有名詞によって汚されていない感じです。いかにも矢継ぎばやに作を物することができない詩風です。だからこそ、やっと結晶化したこの本がことのほか貴重に思えてきます。日常を詠んで軽妙になりすぎず、晦渋にもならず、教訓っぽくせずに書くのは思っているより難しい仕事でしょう。
そういえば古溝さん自身は尾形亀之助の詩が好きだそうです。尾形の詩は雑というか投げやりなように書かれていますが、たしかにそれは詩としか言いようのないものです。以前に存命の詩人で誰がイチオシか、みたいなことを聞いて教えてもらったのが馬野ミキでした。この人の詩も一見ぞんざいな書きぶりです。古溝さんは現代詩の言葉の布置結構に取り込まれないように用心しているみたいで、その態度はそのまま詩についての批評になっていると思います。古溝さんの詩は、日常に使われているままの言葉や言い廻しで普遍の端っこを摑んでいて、それは尾形亀之助の他に、八木重吉や小熊秀雄、さらには忌野清志郎の系列に連なるのではないかとさえ思っています。みんな早死にですが、べつの縁起が悪いということもないでしょう。
「黙禱」
パジャマパーティー?
そうだねえしようか
みんなぐたりと眠くなるまで
いまいるものもいないものもみんなで
古溝真一郎『きらきらいし』 七月堂 2019年1月22日発行 発行者 知念明子 印刷 タイヨー美術印刷 製本 井関製本 装画 古溝言理 帯文 滝口悠生 A5版本文88頁 1,500円 |
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